パラオの歴史と基礎情報

パラオ

第一次世界大戦後のパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になり、多くの日本人が移住しました。そこで、日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。
このように、我が国から3000キロも南にあるパラオ共和国は歴史的にも日本と深い関係にあります。
第一次大戦のときそれまでドイツ領であった南洋群島を日本が開放(大正3年1914年)
その後、第二次大戦終了(昭和20年1945年)までの31年間、日本の委任統治領とされて自治が認められました。
パラオは独立国家として大統領制をとり、国名もパラオ共和国としました。
特に国旗のデザインは、島民多数の応募の中から「日の丸」に似た「月の丸」が選ばれ、日本語や日本の文化・風俗が色濃く残っています。
前の大統領も日系人のナカムラ・クニオ氏です。そのナカムラ大統領時代の1994年(平成6年)10月1日、国際的に認められ国連参加し独立しました。
現在パラオ共和国の最大の収入源は、南太平洋の珊瑚礁に恵まれた自然を生かしたマリンスポーツ。
200以上の島々が南北に点在し、上空からの眺めは、まるでおとぎ話の宝石箱のような美しさ。
訪れた人々の心魅了してやまない ダイビングスポットとしても世界で最も人気のある場所です。

 

パラオの基礎情報

国名
正式名称はパラオ語で、Beluu er a Belau。公式の英語表記は、Republic of Palau。通称、Palau。日本語の表記は、パラオ共和国で通称パラオ。漢字による表記では、帛琉と書き、帛と略す。また、現地ではベラウと呼ぶこともある。
首都
マルキョク州(2006年10月1日パラオ独立記念日に遷都)
旧首都はコロール州
面積
約489平方km(屋久島くらい)火山島と隆起珊瑚礁の諸島で南北に約640キロ、200以上の島からなりますが、人の住でいる島は9島です。
人口
約19,900人(2005年調査)。その他アメリカ本土、ハワイ、グアム等に居住していてパラオ人が約2,000人。また、外国人(フィリピン、中国、アメリカ、日本他)が約6,000人ほど居住しています。(在住邦人は約250人)
言語
英語とベラウ(パラオ)語。
ベラウ語には外来語としての日本語が数多く含まれています。 (デンワ、ゾウリ、ヒコウキ、ゴメン、デンキ、センキョ、ダイジョーブ、モンダイ、カルイ、オキャクサン、etc)
気候
気温は年間を通じて平均28℃前後です。乾季が11月~5月、雨季が6月~10月が目安になりますが、近年は世界的な異常気象の影響もあり明確な区別が難しいです。乾季は東風、雨季は西風と風向きが乾季と雨季の目安になります。
通貨
USドル ※現地での為替レートは良くないので事前に日本で両替するか、TC購入がお薦めです。
時差
日本との時差はありません。
アクセス
パラオへの日本からのアクセスはコンチネンタル航空利用のグアム経由か日本航空の直行チャーター便利用が一般的です。グアム乗り継ぎの場合は約8時間、直行便だと約4時間半でパラオへ行けます。
国旗
国旗のデザインは海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されている。

 

パラオの歴史

スペインの植民地

16世紀頃から、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にはヨーロッパ人が訪れるようになる。スペイン人が初めてこの地を踏み、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきたとされる。パラオは1885年にスペイン領東インド(Indias Orientales Españolas)の一部になった。これらのヨーロッパ人により天然痘が流入した。このことと、彼らの現地人に対する搾取が原因でパラオの人口は90%程度減少したとされる。

ドイツの植民地

1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、ドイツ・スペイン条約(英語版)によって、グアムを除くスペイン領東インドを450万ドルでドイツ帝国に売却した。パラオもこれに含まれ、これ以降ドイツ領ニューギニア(Deutsch-Neuguinea)の一部となった。

ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った。しかし、遠く離れたドイツから送られる人員は殆どないにも関わらず、パラオがもたらす富はドイツ人に独占された。貨幣経済の一般市民への浸透もままならず、それどころか他のドイツの植民地と同様に道路や水道などのインフラ整備や、現地人への初等教育すらほとんど行われなかった。実際に、スペインや日本時代の遺構や遺跡は数多く残されているものの、ドイツ時代の遺構や遺跡などはほとんど残されていない。

1914年に第一次世界大戦が開始されると、イギリスやアメリカなどと同じ連合国の一国であり、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、数少ないドイツ守備隊を瞬く間に降伏させてこれを占領した。

日本の委任統治

第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になった。コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった(軍人を除く昭和18年6月末時点の居住者33,960人の内訳:内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人)。

さらに日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備、そして貨幣経済の移管が重点的に行われた。これにより1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させた。多くの日本人が住み着いたものの、彼らはパラオ人に対して極力差別がない扱いに努めた。

また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地用の教科書編纂のため南洋庁の書記として赴任していた中島敦(後に作家となる)は、現地住民がおかれた状況を悲観的に分析した手紙を家族に送っているが、基礎的な日本語がわからないうちに日本歴史・地理・理科などを教えるのは島民児童や教員への負担が大きく困難だとして、民政時代には3科目を省くなどパラオの実態を考え、変更を重ねた。

日本は1933年に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるものであることから、国際連盟の加盟諸国も日本による統治の継続を認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。

第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかった。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、本人の事前の了承を受けてパラオ挺身隊などに軍属として動員されることがあった。

1945年8月に日本の統治が終了したものの、現在でも非常に親日的でかつ多くの日本人観光客が訪れている上、アメリカに次いで日本から多くの援助を受けている。

アメリカの信託統治

太平洋諸島信託統治領パラオ地区議会(1971年)
戦争終結後の1947年に、国際連合の委託を受けアメリカ合衆国はパラオを信託統治下に置いた(太平洋諸島信託統治領)。アメリカはミクロネシア地域には動物園政策を取り教育や福祉健康には援助を行ったが、日本とは違い産業開発にはほとんど投資を行わなかった。

アメリカ統治の開始にともない、今度は英語による教育が住民に対して行われるようになった。パラオ住民は一部かつ英語によるものではあるものの高等教育も受けることが出来るようになった反面、上記のように産業開発は行われず経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、かつてアメリカの植民地支配下にあったフィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになった。

食料がアメリカによって豊富に供給されたことにより蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり肥満の問題も発生している。また、高等教育を受けた若者は、アメリカの教育の影響を受けて統治国のアメリカでの就職を希望する者が多く、パラオの人口動態は流動的なものとなって把握が難しくなっていた。アメリカによる教育の「成果」は、後述パラオ憲法の非核条項をめぐるコンパクトの国民投票においてアメリカ側の軍事的利益に反する結果を度々出したことにも現れている。

独立への動き

1979年7月には、アメリカによる核兵器の持ち込みを禁止した「非核憲法」を住民投票で可決したが、アメリカ政府の意向を受けた信託統治領高等裁判所が無効を宣言。10月、非核条項を緩和した憲法草案で再び住民投票を行ったが今度は否決。しかし1980年7月に、1年前と同じ内容(修正前)の草案での住民投票で可決された。

1981年に、自治政府の「パラオ共和国」を発足させ、憲法を発布。翌1982年に、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留。その見返りとしてアメリカが財政援助をする自由連合盟約(コンパクト)の内容に関して両政府が合意した。だが翌年行われた住民投票でコンパクトは否決され、これ以降、1990年まで都合7回の住民投票が行われたが全て否決された。

独立

1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これを可決。同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラが当選した。

1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。現在でもパラオ国会では日系の政治家が強い影響力を持つなど、日本と歴史的に密接な繋がりを持つ国である。

【出典】https://ja.wikipedia.org/

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